名前のない日記

俺の俺による俺のための憑き物落としをしています。

第3回カクヨムWeb小説コンテストに参加することにしました。

というわけで、何が「というわけで」なのかはわかりませんが、第3回カクヨムWeb小説コンテストに参加することにしました。

図書券1,000円分につられて参加意思表明もしちゃう。

まぁカクヨムの方も、前に書いた短編投げただけで何もしてなかったし、まとまったものを書くのに「12月まで」(ではないけど)というのは良い括りかなと。長編書き上げた上でweb連載って一回やってみたかったのでちょうどいい機会になりました。

自分の書くものがWeb小説界隈の時流に乗るものではないのはわかってるので、大した結果も出ないでしょうが、まぁ参加することに意義がある

今全体の10分の1程度の文量ですが、久々に「脳内の8割以上を自作にぶちこむ」状態になってて、ちょっとずつ楽しくなってきました。応募部門は、書き上げてみないとわかりませんが、多分「SF・現代ファンタジー部門」かなぁと思ってます。

目算だと書きあがりは11月中旬以降になりそうなので、それまで更新が滞るかもしれませんが、よしなによろしくお願いします。

手が出ること以外は

少し昔のことを思い出してしまいました。

昔、あるスポーツをやっていた時のことですが、結構いたんですよね。高名な指導者の中にも平気で「鉄拳制裁」する人。その教え子が「人として間違った行動をしたから」とかではなく、単に「競技上でまずい試合の進め方をしたから」とかで。他の人から「お前に負けたあいつ、裏で先生に殴られてたよ」とか聞いたりして。

正直言って、そういうのを見たり聞いたりしても、当時は特になんとも思いませんでした。上に行けば行くほど厳しいのはわかりきっていたし、「そんなもんだろうなぁ」というのが、僕を含めて周囲の受け止め方だったように思います。大きな事件が世を騒がせて以降、世間の目も厳しくなってきた今なら、また違う受け止めになったかもしれませんが。



僕自身も今は、「体罰はいけないこと」、「体罰をしたからといってその競技や技能の向上に意味を持つことはない」ということに異論はありません。

しかし、そういう「体罰は悪」「体罰は百害あって一利なし」が当たり前、常識、正義となった世界で、上記のような「体罰との組み合わせで結果を出してきた指導者」もしくは「それしかできない指導者」は生きていけるか、というとこれは間違いなく「生きていけない」んですよね。

「そんなもん本人の能力不足だろ」と言われりゃその通り、ぐうの音も出ない正論であることは間違いないんですが、そういう人たちに対して、指導者としての処刑執行書にサインをしてしまっていいものだろうか、という逡巡があるのも確かです。まぁこれは僕の意識の甘さなのかもしれませんが。

こういう「時代が進むことによって、その役割に求められる資質への要求が高くなる現象」って色々な分野でも見られます。

指導者であれば、「競技や技術への理解・指導力」にプラスして「体罰によらず、生徒のモチベーション向上や技術の理解を深める言語能力・コミュニケーション能力」を要求されるようになった、ということ。

例えば「結婚」。かつて男性に求められていたのは「一家を養うだけの経済力」オンリーだったけど、今はそれにプラスして「仕事と並行して妻と等分の家事負担をこなせる家事能力、調整力、コミュニケーション能力」が求められるようになった。

例えば、会社の上司。かつてはパワハラまがいのやり方で部下を恫喝し業務を遂行させるオールドタイプの人物は、もはや淘汰の対象。下手をすればどこかの議員のように恫喝音声を公表されて社会的に殺される可能性もゼロとは言えない。

「誰もがより暮らしやすい社会」を実現するためには、その実現を阻害する要素を持つ人間を排除していかないといけない。「体罰のない指導」という「正義」を旗印にして。

結果、「誰もがより暮らしやすい社会」を実現するために、従来よりも高い能力や資質が社会の構成員一人一人に求められるようになっていく。

そういう方向性って本当に正しいのかな、なんて思うことがあります。「より過ごしやすく、より快適に」という正義が要求する水準に、多くの人が応えきれなくなる時がいつか来るんじゃないか。そういう不安が。

「より過ごしやすく、より快適に」は「正義」です。しかし、そういう「正義」がいつか僕ら自身を殺すんじゃないか。そんなことを思ったりもします。



まぁこんなことを書いてますが、僕自身は体罰をするのもされるのも嫌です。そういう指導が有効だと思ったことも、実はありません。

ただ、あの時、僕に負けた彼を殴ったあの先生は、今の時代に「先生」が出来るのだろうか、とか思ったりもします。話したことも実はありましたが、普段は実に人当たりのいい、良い人だったんですよね。手が出ること以外は。

めぐり会える人、会えない人

ようやく「君の名は」を見た。俺はいつも流行に乗り遅れる傾向にある。

奇跡的な二人の出会い、そして別れ。大切な誰かの記憶を失って、それでも忘れられずに東京をさまよう。そこには桜が舞っていて……

ってこれ「秒速」やないか。

やっぱり思っちゃうんですよねぇ。

ご存じの通り「君の名は」は、再び巡り合える。「秒速」は出会えない。

「君の名は」は、相手のことを忘れてしまっている。だけど、心の奥底では忘れていない。記憶がないだけで、相手のことは今も「現在」のど真ん中。だからこそ、瀧は誰とも知れない相手に声をかけられる。

「秒速」は、相手のことを忘れてしまっているわけではない。だけど、相手のことはもう既に「過去」のこと。発酵し腐り落ちそうな思い出を未練たらしく抱え続けても、貴樹にとって彼女はもう「過ぎ去ってしまってもうない」。だから貴樹は、ふとすれ違った「あの人」かもしれない相手に声まではかけられない。

映画として、そこまでに辿ったストーリーは違えど、全く同じシチュエーションを作り出し、全く違う結論を導き出しているんですよね。「秒速」と「君の名は」。相似で、裏返し。

忘れてしまった相手を思い続ける「強さ」。忘れることも出来ずに記憶の底にこびりついた相手を思い続ける「弱さ」。

僕は「強さ」よりも「弱さ」に共感する傾向が強いらしく、どちらが心に残るかと聞かれれば、答えるまでもないって感じなんだけど。それでも、最後に二人を「めぐり合わせた」この決断はすごいな、と思わずにはいられない。

正直言って、会わせない判断は十分アリだったと思うんですよ。色んなギミックを総動員して、精一杯の美しさで彩って、「それぞれに生きていく」、そういう結末を描くことだって出来たはずなんです。 だけど、製作陣はその結末を選ばなかった。最後にあのセリフを二人に呟かせた。

「秒速」では出会えなかった二人が、「君の名は」とつぶやくことで「巡り合えた」。

その結末を描くには、ものすごく腕力と覚悟が必要で、「秒速」から何年経ったかわかんないんですけど、その長い時間の中で、新海監督はその腕力と覚悟を培ってきたんだな、と。「秒速」に感銘を受けた気持ち悪い人間の一人として、それを何か温かいもののように感じてしまうわけです。

誰かの首元にナイフを突きつけるということ

まず大前提として、他人の不倫なんてどうでもいいことである。政治家だろうが、ミュージシャンだろうが、与党だろうが野党だろうが、裏でヘイト貯めてた女性タレントだろうが。

その人たちが不倫しててもなんとも思わないし、不倫していた川谷さんの音楽は、今も昔も素晴らしいので何の問題もない。政治家も同じ。いい仕事をしているのであれば、いち国民としては不倫などどうでもいい些末なことだ。だから、基本的には、不倫の有無に関わらず山尾さんは離党や議員辞職などする必要はないと思う。これが僕の基本姿勢。見てる限りそういう人は結構多い気がする。

にも関わらず、これだけ早く離党を決断されたのは、やはり過去の自分の発言に裁かれたという部分が大きいんじゃないかと思う。

週刊文春で妻子ある男性弁護士との不倫疑惑を報道された民進党山尾志桜里政調会長(43)。昨年2月に出演したテレビ番組で、当時「育休」取得を宣言しながら妻・金子恵美衆院議員(自民)の妊娠中に不倫をしていた宮崎謙介衆院議員(後に辞職)を「無責任」「気が緩んでいる」などとして激しく批判していた。それが今、待機児童問題で頭角を現し、6歳の長男を持つ山尾氏自身に「特大ブーメラン」となって跳ね返っている。


 山尾氏は昨年2月13日のTBS番組で、前日の12日に記者会見で議員辞職の意向を表明した宮崎氏について「(宮崎氏が記者会見で)31回ため息をついたということですけども、こっちがため息つきたいよ、というような気持ち」とコメントした。その上で「やっぱり一番危惧するのは(父親の育休取得の)流れを作ると言って、こんな無責任なことをやって、それが逆流になってしまうのが一番心配です」と語った。


【山尾志桜里氏不倫報道】「ゲス不倫」で議員辞職の宮崎謙介氏に「無責任」「気が緩んでいる」 昨年2月のテレビ発言…特大ブーメランに(1/2ページ) - 産経ニュース

議員の不倫という、基本的には政治家の仕事と関わりのないことについて厳しく追及したことが、回り回って自分の首を締めることになってしまった。

他人の首元にナイフを突き付けようとするなら、いつか同じナイフが自分の首元に突き付けられることも覚悟しないといけない。 他人に対して正義を振りかざすということは、こういうことだ。



これは余談だけど、党派性によって同じ行為についてある人は擁護し、ある人は批判し…ってやってる人やメディアもいるようだけど、そういう人は長期的に一般から信頼を失っていくってことにもっと自覚的になった方がいいと思う。特にメディア。「所詮党派性でしょ?」って思われたらそのメディアはもう死んだも同然だ。誰もまともに話を聞こうとは思わなくなるからだ。

個人のダブスタはまだ許せるよ、少なくとも俺は。人間の好き嫌いはあって当然だし、その党派性がその判断に絡むのはしょうがない場合もあるだろう。まぁそれによって世間から「そういう人なのね」って思われるのはしょうがないと思うけど。

ただ、メディアがそれをするのは駄目だ。自らの商売の根幹である「正しさ」や「正当性」っていう金看板を毀損する行為だからだ。

同じ行為について、批判するなら批判する。擁護するなら擁護する。

自分らの「正義」に一貫性を持てないメディアなんか一体誰が信頼するんだ。「正義」掲げたいなら自分たちの報道に責任くらい持てよ。いい加減に受け手を馬鹿にして見下すのはやめて、自分たちの主張の正当性を保つために必死になってくれよ。じゃなきゃ、今に誰も真面目に話聞いてくれなくなるぞ。

最近悪夢ばかり見ている

お題「最近見た夢」


これなぁ……

先週ぐらいから体調が悪くて、先週末はちょうどそのピークを迎えたぐらいの頃だった。熱は39度から40度くらいを行ったり来たりしていて、ほとんど起き上がれず、焼け付くように喉が痛むせいで眠れず、という悪夢のような三日三晩を過ごした。その三日間は本当にきつくて、今から思うと普通の精神状態ではなかった。身体の状態は精神を大きく左右する。

そんな三日間で、ずっと頭に引っかかり続けた夢がこれだ。

身体の中に病んだ二つの器官がある。仮にAとBとするが、夢現の中で確かに俺は「その二つの器官が病んでいること」、「そのどちらかを優先して直さねばならないこと」を自覚していた。

どちらかを先に直さなければならない、ということは、もう一方は後回し、悪い言い方をすると犠牲にしなければならない。どちらを犠牲にして、どちらかを活かさなければならない。だけど、俺には「どちらが優先して活かさなければならない器官なのか」がわからない。俺は眠りに就こうとするたびにその問題にぶち当たり、答えの出ない問いに悩み続けた。今思い出すだに、どう考えても頭がおかしかった。

しかし、三日目くらいのある晩、ふと天啓に打たれ「そうだ、Bを生かせばいいんだ」と気付きに至った。「Bを生かす」とは具体的にどうすればいいかは今でもさっぱりわからないが、俺は「とりあえずBを生かせばいいんだ、そうすれば俺は救われるんだ、良かった良かった」という心持ちになった。

どういう理屈かはわからないが、その思いつきの数分後に少し咳き込んだ拍子に喉の奥から白く血の混じった膿が出てきて、それ以降発熱もピークを越え、徐々に快方に向かっていった。

あの夜の気づきに何の意味があったのかはわからないが、夢の中にいる無意識の自分は、何か身体の重要な器官との意思疎通を図る能力を持っているのかもしれない、と思ったりもする。何か異常があったら健診行くから早めに意識上の俺に耳打ちしてほしい。



ちなみに昨日は、大学時代の部活の夢で、対して好きでも嫌いでも尊敬もしていなかった先輩から指導を受けている途中で蛇に襲われてムチャクチャになる、という夢を見た。なんか最近悪夢ばかり見ている気がする。

自分を大切にするからこそ、他人にも優しくできるんだ。

昨日に引き続き例のCMの話。

ちょっと前に「男も男らしさから降りていい」というエマワトソンさんの演説がtwitterで話題になってたけど、このCMのお父さんが背負ってるのは「従来の男らしさ」と「新しい時代の男らしさ」なんですよね。仕事はやりつつ、家のこともやれ。お母さんが「従来の男の役割=仕事」の一部を背負わざるを得なくなったこととのトレードオフ

自分もそういう毎日を生きてて、時々ふっと「魔がさしてしまう」瞬間があるのは非常によくわかる。ダブルタスクに引き裂かれて、後から考えると間違った選択肢を選んでしまった。そういうこともないとは言わない。

だけど、やっぱり人間って「そういう風に出来ている」もの。「間違うように出来ている」ものなんですよ。誰でも何かを間違える。魔がさしてしまう。行っちゃいけない方に行ってしまう。自分もそうだし、家族もそれは同じ。家族だって完ぺきではないのだから、時に間違える。疲れてしまう。やらなければいけないことを放棄してしまう。

こういう時に大事なのって、そういう「正しくない自分」を許してやることだと、俺は思います。「正しくない自分を許す」ということは、ひいては「正しくない相手を許す」ということ。間違いを受容することって、優しさを持つことじゃないですか。自分を大切にするからこそ、他人にも優しくできるんだ。次元が言ったことは真理だと俺は思うんですよ。

そういう「自分と他人に向ける優しさ」がなければ、自分以外の他人と、家族として暮らしていくことは結構難しいんじゃないでしょうか。情けない自分を許せずに自分で自分を傷つけ続けるか、他人の間違いにいつも苛立ち、喉元にナイフを突きつけ続けるか。どちらに転んでも、そんな生活は長くは続けられない。

このCMのお父さんに向けられる視線を見てると、そういうことを考えてしまうんですよね。自分の間違いを許す「優しさ」がないから、他人に対する「優しさ」なんて持てない。そういう「優しくない」雰囲気が社会を覆っているんじゃないか、という気になってしまう。ネットの嫌な部分ですね。

従来の男らしさにプラスアルファを求められだした男性に、従来の女性らしさにプラスアルファを求められだした女性。そういう諸々がみんなの余裕を奪っているのかもしれない。「だったら昔のような分業に戻ればいいじゃないか」という意見もあるんだけど、時計の針は戻せない、とも僕は思ってしまう。

結局のところ自分を許せるのが自分しかいない以上、誰もが自分自身に「優しく」なるしかないんだと思う。だけど、これからさらに社会は余裕を失くしていく中、「優しく」なんて無理なのかもしれない。 自分や家族にすら「優しく」なれないのなら、それはもう本当にどうしようもない。もう一度「個」に戻り、万人が万人に対する闘争を始めるしかない。そういう絶望すらある。

だけど、優しくなりたい。強くなりたい。家族のために、自分のために。愛なき時代に生まれたわけではないのだから。

やさしくなりたい

やさしくなりたい

炎上CMを撲滅する方法(追記あり)

例の牛乳石鹸CM動画の件で、多くの人が「このCMは駄目だ」って言ってるわけだけど、この「多くの人にリーチすることが出来た」という点においてこのCMは大成功だったんじゃないか、と僕は想像しています。

だって俺、この「牛乳石鹸」っていう商品知らんかったんだもん。俺がいくら馬鹿でも、こうみんなが「牛乳石鹸!」「牛乳石鹸!!」って囃し立てたら普通に商品名覚えちゃいましたよ。こういう「物議を醸して今までにない顧客層にリーチする」ことがこの広告の目的だったとしたら、twitterで炎上、はてブでも炎上してる現状は100点満点で目的達成ですよね。

したり顔で「この広告は意図が上手く伝わってない。不出来だよ」とか批評家面して指摘する人とかいますけど、その広告が「本当は何を目指しているのか」なんて、それこそ企画段階まで遡らないとわからないわけですよ。最初の出発点も知らないのに、はっきりしない「広告の意図」を妄想してアレコレ言うの、僕自身も含め、ちょっと滑稽な気がしますけどね。

「何か言いたい人」にとっては、格好のサンドバックを存分にどつきまわせてハッピー。とりあえず商品名を覚えてもらいたい広告主は、商品名を覚えてもらえてハッピー。クライアントの要望に見事応えた電通は、クライアントからの評価も上がってハッピー。実は、みんなが幸せになれるハートフルCMだった可能性も否定できません。

「商品のイメージが下がってるじゃないか」という指摘もあるかもしれませんが、本当にそんなに下がってるか?というと、これは結構微妙じゃないかという気がします。あの動画だけで、「失望した!」「もう買わない!」とまで噴き上がり、その後も怒りを持続させ続ける人って、実は結構な少数派かもしれないですしね。

これは僕の想像ですが、こういう「炎上CM」が本当に商品や企業イメージを深刻に毀損するのであれば、とっくの昔にグレーゾーンを攻めるようなCMは作られなくなってるんじゃないかと思います。こういう、微妙なラインを攻めるCMが定期的に生産されるのは、「製作側、クライアント側にとって利益があるから」じゃないかと思うわけです。

もしも「多少物議を醸してもいいから、とにかく多くの人にリーチしてほしい」というクライアントがいたとしたら、こういう「何か気に入らないものを見ると噴き上がる」「批評家面して何か一言モノ申したい」「なんでもいいから殴りたい」人の心をくすぐるサンドバックをこしらえるのが一番手っ取り早そうですもんね。

こういうCMが本当に嫌い、視界に入らないでほしい、という人が取れる手段としては、逆説的ですが「全く言及しない」「無視する」というのが最もいい方法のように思います。反応があるからこそ、その反応を狙いに行く人がいるわけですからね。

もしも、ポリコレに即したハートフルなCMが拡散しまくりでドッカンドッカン受ける世界だったら、何にもしなくてもそういうCMばかりになってると思いますよ。 誰も反応せず、どこにもリーチしない広告なんて、それこそ無価値ですから。不快なものは触れず広めず、素晴らしいものだけを広める。ああ、なんという光属性でピースフルな世界なんでしょうか――

まぁ、そんなことは中々出来ないのが人間なんだと思います。何かを殴るの、誰かを見下すの、楽しいですもんね?




(追記)

非常に面白い解釈を目にしたので、ご紹介させてください。



正直言って、上の文章は多少イライラしながら書いたことは否定しません。ただ、こういう色々な見方が出来る「物議を醸すCM」ってのも、意外といいものなのかもしれませんね。少なくとも僕は、この方のツイートを目にできただけで、どこか救われたような気になりました。なっただけです、多分。

この夏、いちばん羨ましい馬鹿を見つけた

休みが足りなくてお盆も絶賛出勤中の身でこれを見た僕の気持ちを端的に述べるなら「う、うらやましいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!」の一言に尽きるわけです。

そりゃ僕もオトナですから、「こんなん休み二週間くらいないと無理だよな」とか「あったとしても子どもの面倒みないといけないから無理だよな」とか、必死に「出来ない理由」を探して、ある意味自分を納得させる作業を、僕のくだらない脳みそはオートマティックに始めるわけなんですがね、それにしても、それにしてもですよ。

めっちゃ羨ましい。出来るなら俺もやりたい。いや、やらせてくれよ。「コミケに行く!」みたいな馬鹿な理由で、ノープランで走り出したい。一日で浜松まで走って、適当なネカフェで一晩明かしたい。日焼けで肌ボロボロになりながら、警察に職質とかされたい。もう憧れ、憧れしかありませんよ!!(憤怒

この年になると妙に計算高くなって「一日で走りきれる距離の限界はこれくらいで、これ以上走ると脚に影響が出るからこの辺で宿とろう、なんなら予約とっとこう」とか「走力高そうな自転車買って少しでも負担減らそう」とか金の力を使ったりとか、「箱根みたいにダメージ溜まりそうな難所は避けよう」とか、やってもロマンのない行動を取ってしまうんだろうなぁとか思っちゃう。

そう、ロマン。ロマンですよ。ロマンのためにすべてを犠牲に出来る馬鹿。これが若さの特権でなくてなんだ。

まぁブコメとかコメントに散見されるように、一定の批判があってしかるべきなのはわかりますよ。倒れたら迷惑かけるだろ!とかね。でも、それでもやってみたい、という気持ちはわかるんだよなぁ。

このまとめの方が、24時間テレビのマラソンとかよりよっぽどワクワクするのはなぜなんだろう。人生であと1、2回はバカやりたいなぁ……

昔、はてなブログには「新着エントリー」「注目のブログ」という動線があったそうな

思うところがあったので、いくつかの「ブロググループ」に参加してみた。参加したのは、以下。

雑談 - はてなブログ グループ

読書 - はてなブログ グループ

マンガ - はてなブログ グループ

なぜ参加したのかと言うと、はてなブログをやっている人がここに辿り着くための動線をいくつか確保した方がいいんじゃないか、という気がしたからだ。

先日書いた記事がいくつかブクマをもらったおかげで、今このブログは日に20~30PVくらいある状況だ。正直言って、個人ブログだったらこのぐらいの数字が一番管理しやすく、精神安定的にも良好な状態を保てるのだが、ふと思った。

はてブ以外からは、このブログへどうやって来るのだろう?」

今の「はてなブログ」のトップページはこんな感じだ。

見てもらえばわかるが、トップで一番目立つのは「おすすめ記事」だ。おそらくこれは1日何千PVという数字をたたき出す中堅・大手ブログの記事だろう。下に行くと「お題」「トピック」「カテゴリ」などなどが並んでいるが、ここで俺は気付いてしまった。

「新着ブログとか注目のブログがない……」

少なくとも、このトップページにはどこにも見当たらない。あまりにも見当たらないのでGoogle神におうかがいを立ててみると、申し訳程度に以下のサイトがヒットする。

まぁいいんだけど……

はじめたばかりのブログって、こういう動線がないと検索ぐらいからしか来てもらえないと思うんだけど、はてなさん的にはそれでいいんだろうか? 検索からしか人が来ない、だとはてなブログ同士で横のつながりを作るのって結構厳しいと思うんだが……

まぁこういう「はてなブログ同士のつながり」って、えてして「互助会」とレッテル貼られて蛮族に燃やされるケースが多かったので、一般ユーザー的には消滅してくれた方がありがたい、くらいのものかもしれないけどね。

炎上狙いブログはやっぱりどうしても目についちゃうんだけど、悪目立ちするもの以外にも真面目にちまちま書いてる人も中にはいるわけで、そういう人たちがワリ食っちゃうのってどうなの?と思わざるをえない。

探してみたら「新着エントリー」がなくなったことについて嘆きの声がいくつか見つかった。

これらを読む限り、そのうち何らかの形でトップページに表示される日はくるのかもしれないけど、改変から約1年音沙汰なしということは……まぁお察しですね。

「全ての人が恋愛できる」なんてのは幻想だと思う

「童貞=女に受け入れられたことがない人生だった」これがつらいんだろが!!!!!!!!

これな、という感じ。実はこの話は童貞に限ったことじゃなく「他者に受け入れられた経験を持たないことをつらいと思う気持ち」の話なので、厳密に言うとタイトルがあまり良くない気もするが、そういう正確なタイトルをつけてもブクマは集まらないだろうなとも思う。

しかし、非常に気持ちはよくわかる。

僕は今30越えで、一応家族がいる。今まで生きてきて女性と深く付き合った経験は奥さんとしかない。奥さんと付き合いだしたのは20代後半だったが、それまではバリバリの「彼女いない歴=年齢」。モテたこと、異性に気持ちを受け入れてもらったことは一度もなかった。その当時の気持ちは、概ね上の増田に書かれている通りだ。

「僕はもう一生、誰かと繋がることはないのだろう」

義務教育から高校、大学、そして社会人。連綿と積み重ねた負の体験が、僕の人生観を強固に確定させようとしていた。幸せそうな他人を見るたびに、心のどこかに憎しみの萌芽のような何かが感じられた。

そんな暗黒から抜けることが出来たのは、単純に運が良かったためだ。そういうめぐり合わせがなければ、僕は今でも暗黒の中で一人、憎しみをすくすくと育てているだろう。僕にはそういう確信がある。少なくとも、努力でなんとかなる問題だとは到底思えない。

「正しい恋愛の仕方」「正しい性的魅力の身に着け方」なんて、誰に教えてもらえるものでもない。そもそもそれらに「正しい方法」なんて存在しないのだろう。

そんな「高度なコミュニケーション能力」に依存する、正解が存在しないノウハウを習得することについて、「頑張れば誰でもできる」「出来ないのはお前の努力が足りないからだ」という態度を取る諸兄は、いくらなんでも冷酷が過ぎるんじゃないかと思ったりもする。

「頑張れば甲子園に行けるよ!」はある意味真実なのかもしれない。しかし、1試合こなしただけで参加校の約半数は消えるのもまた事実だ。そうして敗れ去った人たちに「甲子園に行けなかったのはお前らが頑張らなかったせいだよ」と言うか?という話だ。少なくとも僕は言えない。たとえ、「どうしようもない」が真実なんだとしてもだ。




これは前にも書いたかもしれませんが、結婚して一番良かったことは、こうした「誰にも受け入れてもらえない自分」という殺し合いの螺旋的な何かから大手を振って下りることが出来た点ですね。

「もう恋愛しなくていい」ことがこんなにも素晴らしいことだなんて! 本当に世界が変わって見えますよ。この後何かが起こって奥さんと別れるなりなんなりしたとしても、僕はもう金輪際恋愛なんてしたくないです。

そういう意味では僕は間違いなく恋愛に向いていない人類だし、もしかしたら世間一般的な恋愛は出来なかった人間なんでしょう。「恋愛至上主義」がまだまだ根強い現代にあって、そんな「現代の不適合者」たる自分がこうして家族を得られた幸運には本当に感謝しかありません。

「全ての人が恋愛できる」なんてのは幻想だと思います。現代、結婚するために要求されているのはそういう「希少価値のある能力」なんだ、ということはもっと意識されていいと思うし、恋愛に依らない結婚へのパスがいくつも出来たらいいんじゃないかなとは思いますが、多くの人が幸せになれる冴えた解答は今の所見えません。