名前のない日記

俺の俺による俺のための憑き物落としをしています。

今さらまどか☆マギカ「叛逆の物語」を見た①

今更まどマギを見始めて、劇場版「叛逆の物語」まで見終わったのが先週のことだ。正直まだ自分の中で上手く整理できていないので、今までブログも書けなかった。まぁ忙しかったのもあるんだけど。


やっぱり皆と思うことは同じで、前半の「魔法少女」としての日々に「ビューティフル・ドリーマー」を感じてしまった。演出もそれを想起させるオマージュが散りばめられていたように思う。


ビューティフル・ドリーマー」でラムが見ていた「楽しい夢」を破るのは「前に進みたい」というあたるの意思だったが、「叛逆の物語」ではどうか。

ほむらが見ていた夢を破るのはあくまでほむら自身だ。楽しい毎日には違和感を覚え、「こんなぬるま湯に浸かっていることは許されない」とほむらは考える。無邪気に(夢邪気に?)楽しい夢に浸ったラムとほむらは決定的に違う。そして、時が停まった楽園*1よりも変わっていく明日を選ぶために夢を破ろうとしたあたるとも違う。

現実と虚構みたいなものをモチーフにした作品はいくつもあるけど、大体の作品の「虚構」は「楽しいけど、いつかは卒業しなきゃいけないもの」みたいな描かれ方をされることが多い。

そりゃそうだ。虚構は終わるからこそ楽しいのだ。永遠に続くお祭りなんて悪夢でしかない。

自分はkey作品に思い入れがあるので、やはり「LittleBusters!!」なんかが思い浮かぶ。恭介が作り上げたループ構造はあくまで理樹や鈴を強くするためのものだった。虚構にいつまでも留まっているわけにはいかない悲しさ、みたいなものもそこでは表現されていた。

Little Busters!

Little Busters!


まぁこれらの作品における虚構は「作品世界」や「二次元」みたいなものの暗喩であるので、社会通念上の捉え方としてもそれは違和感ない。

しかし「叛逆の物語」のほむらは、ぬるま湯としての虚構を「唾棄すべきもの」「浸かっていること自体が罪」と捉えている。それは、ほむらの現実がまどかという神聖なる犠牲によって成り立っているから*2だが、この辺に製作者側の気分が表れている気がして面白い。

俺たちはまどかの犠牲を無駄にしないためにも戦い続けなければならないのだ。のうのうとアニメを見ている自分への罪悪感、みたいなものもそこには見えてくる。


まとまってないし、終わりまで書いてないけど、とりあえずこの辺で。

続きはまた今度。

*1:それはそれでディストピアではあるんだけど。

*2:TV版は大きな意味でほむらの「現実」を描いたものだ、という言い方も出来る。