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名前のない日記

俺の俺による俺のための憑き物落としをしています。

「卵」ではなく「壁」の側に立とうとするフィクション

この件。


後で消えちゃうかもしれないから、この名コピーを引用しておこう。

人生に、文学を。

文学を知らなければ、
目に見えるものしか見えないじゃないか。
文学を知らなければ、
どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)

読むとは想像することである。
世の不条理。人の弱さ。魂の気高さ。生命の尊さ。男の落魄。女の嘘。
行ったこともない街。過ぎ去った栄光。抱いたこともない希望。
想像しなければ、目に見えるものしか知りようがない。
想像しなければ、自ら思い描く人生しか選びようがない。

そんなの嫌だね。つまらないじゃないか。

繰り返す。人生に、文学を。
(一年に二度、芥川賞直木賞

人生に、文学を。

いやぁ、何度読んでもカッコ内の文言が色々台無しにしてる感が否めないわけですが、それを差し引いても、通読してそもそも何を狙った広告なのかがさっぱりわからないというのは些か問題ではないかと思いますですはい。

芥川賞直木賞を主催する日本文学振興会さんが発起人の、特に新味もない読書ティーチング企画に対して名だたる大企業が協賛にずらっと名を連ねていらっしゃいますが、まぁお金がなくて大変なんだろうというのは容易に想像がつきますね。

当然のように燃えた結果、日本文学振興会さんは『アニメを差別、蔑視(べっし)する意図はまったくなく、それが目的ではない』と釈明に追われているようです。*1




有名だけど直接は関係ないし、趣旨も実は違う話なんだけど、村上春樹さんがエルサレム賞の受賞スピーチでこんなことを言っている。


が、ここで、一つ非常に個人的なメッセージを述べさせて下さい。それは、私がフィクションを書くときに常に心がけていることです。(座右の銘として)紙に書いて壁に貼っておくという程度ではなく、私の魂の壁に刻み付けてあるものなのです。それは、こういうことです。

もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ。
そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているのか、それは他の誰かが決めなければならないことかもしれないし、恐らくは時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立つような作家の作品にどのような価値があるのでしょうか。

村上春樹エルサレム受賞スピーチ | 書き起こし.com


この「壁と卵」スピーチの念頭に置かれているのは、ガザ地区での激しい戦闘のことや、エルサレムという土地の賞を受賞することに対する逡巡だったりするのだが、村上さんの文学に対するスタンスがよくわかるメッセージだ。

高い壁と、それにぶつかれば割れるしかない卵。

高い壁が「体制」や「システム」だとすれば、卵はその中で生きる「人間」のことだという。

そうした「人間」を描き「人々の魂がかけがえのないものであることを示し続けることが作家の役目」であり、「我々が日々、大真面目にフィクションをでっち上げている理由」なのだと。



端的に言えば、例の広告に透けて見える、フィクションの中で文学のみを殊更に権威づけ、アニメを始めとするその他のフィクションを貶めようとする態度は、「文学」そのものを村上さんの言う「壁」の側に貶めようとする行為のように見えた。少なくとも俺の目にはそう映ってしまった。

「卵」ではなく「壁」の側に立とうとするフィクションを、一体誰が支持するというのか。

「文学」がそういうフィクションだと喧伝するような広告は、人々の心を「文学」からさらに遠ざけるだけだ。そういう想像力を立案者側は持てなかったのか。

まぁそんなわけで、俺はあの広告は全く賛同しない。