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名前のない日記

俺の俺による俺のための憑き物落としをしています。

鷲巣麻雀とはいったいなんだったのか

アカギがついに終わるらしい。そんなニュースを見て、先日ひさしぶりに「鷲巣麻雀」編以降を読み直してきた。

 

アカギ:「カイジ」作者の人気マージャンマンガ 27年の歴史に終止符へ - 毎日新聞

 

近代麻雀」という麻雀漫画雑誌に連載しながら、鷲巣が地獄で無双するという麻雀一切関係ない展開を結構な期間続けるなど無駄にチャレンジャブルというか、ネタに事欠かない漫画、みたいな印象の漫画になってしまった感は否めないけど、描かれていることは一貫して「人はいかに生き、いかに死ぬべきか」なんだよね。「天」の赤木葬式編とか、カイジだと「橋」とか。福本先生はこのテーマについて語るのが本当に好きなんだなぁ。

死の恐怖について、カイジの「橋」では「人が普段目を逸らし、必死に閉じ込めている怪物」と表現されていた。「橋」を渡ろうとする若者たちの上を旋回し、心の弱った者から取り殺していく死神。それが「死」だ。

鷲巣麻雀中盤、勝負が決したかに見えた時、赤木は鷲巣を「異常なまでの『生きたがり』。「死」から一歩でも遠ざかるため、不要に不当に金の城を築き続けてきた、そして基本的にはただそれだけの男」と評価しているが、そういう鷲巣の性質を知ると、そもそも鷲巣がなぜ「鷲巣麻雀」を始めたのかが見えてくる。

神に愛されて勝ち続けてきた鷲巣も老いには勝てない。「一歩でも『死』から逃れるために」勝ち続けてきたからこそ、「死」が恐ろしすぎて必死に目を逸らし続けてきた鷲巣だからこそ、どうやって自分の「死」を受け入れればいいのかわからなかった。だから、若者の血を吸い取り干からびさせ、強制的に「老い」させる。

強制的に「老い」させられ、目の前の「死」に怯える若者を見て、鷲巣はこう思うわけだ。ほらみろ、やっぱり「死」は恐ろしいじゃないか――

だから、「死」を恐れないアカギと対峙して鷲巣は戸惑う。なぜこいつは「死」を恐れないんだ。なぜ、という問いにはやはり鷲巣の「恐れ」が透けて見える。「なぜ恐れない?」は「俺にとって『死』はこんなにも恐ろしいのに」の裏返しだ。

アカギという人間が死と堂々と対峙する様子を見て、鷲巣はやがて自分は「死」とどう向き合うべきなのかを学んでいく。「いつか自分が死ぬ時には、アカギのように笑ってそれを受け入れよう。それこそが本当の意味での自由ということだ」なんて、まさにそれだ。

「死への恐怖」という怪物とどう対峙するか。鷲巣麻雀が始まって以降の「アカギ」は、突き詰めるとそういうことだ。

それって「天」のラスト3巻や「橋」でやったことと同じじゃね?と言われれば、実も蓋もなく言っちゃうとそうなんだよね、ということになる。

はっきり言って、あまりにダラダラした展開が続いた時はさすがどうかと思ったけど、それでも読み続けるに値する漫画と思い続けられたのは、やっぱり鷲巣というキャラクターのおかげなんだと思う。

「死への恐れ」を克服できない鷲巣は、読者自身、あるいは作者の姿でもある。鷲巣という人物をどう完結させるか、また、それをアカギがどう受け止めるか。その辺りを思い返しながら、あと1年楽しみたい。