名前のない日記

俺の俺による俺のための憑き物落としをしています。

手が出ること以外は

少し昔のことを思い出してしまいました。

昔、あるスポーツをやっていた時のことですが、結構いたんですよね。高名な指導者の中にも平気で「鉄拳制裁」する人。その教え子が「人として間違った行動をしたから」とかではなく、単に「競技上でまずい試合の進め方をしたから」とかで。他の人から「お前に負けたあいつ、裏で先生に殴られてたよ」とか聞いたりして。

正直言って、そういうのを見たり聞いたりしても、当時は特になんとも思いませんでした。上に行けば行くほど厳しいのはわかりきっていたし、「そんなもんだろうなぁ」というのが、僕を含めて周囲の受け止め方だったように思います。大きな事件が世を騒がせて以降、世間の目も厳しくなってきた今なら、また違う受け止めになったかもしれませんが。



僕自身も今は、「体罰はいけないこと」、「体罰をしたからといってその競技や技能の向上に意味を持つことはない」ということに異論はありません。

しかし、そういう「体罰は悪」「体罰は百害あって一利なし」が当たり前、常識、正義となった世界で、上記のような「体罰との組み合わせで結果を出してきた指導者」もしくは「それしかできない指導者」は生きていけるか、というとこれは間違いなく「生きていけない」んですよね。

「そんなもん本人の能力不足だろ」と言われりゃその通り、ぐうの音も出ない正論であることは間違いないんですが、そういう人たちに対して、指導者としての処刑執行書にサインをしてしまっていいものだろうか、という逡巡があるのも確かです。まぁこれは僕の意識の甘さなのかもしれませんが。

こういう「時代が進むことによって、その役割に求められる資質への要求が高くなる現象」って色々な分野でも見られます。

指導者であれば、「競技や技術への理解・指導力」にプラスして「体罰によらず、生徒のモチベーション向上や技術の理解を深める言語能力・コミュニケーション能力」を要求されるようになった、ということ。

例えば「結婚」。かつて男性に求められていたのは「一家を養うだけの経済力」オンリーだったけど、今はそれにプラスして「仕事と並行して妻と等分の家事負担をこなせる家事能力、調整力、コミュニケーション能力」が求められるようになった。

例えば、会社の上司。かつてはパワハラまがいのやり方で部下を恫喝し業務を遂行させるオールドタイプの人物は、もはや淘汰の対象。下手をすればどこかの議員のように恫喝音声を公表されて社会的に殺される可能性もゼロとは言えない。

「誰もがより暮らしやすい社会」を実現するためには、その実現を阻害する要素を持つ人間を排除していかないといけない。「体罰のない指導」という「正義」を旗印にして。

結果、「誰もがより暮らしやすい社会」を実現するために、従来よりも高い能力や資質が社会の構成員一人一人に求められるようになっていく。

そういう方向性って本当に正しいのかな、なんて思うことがあります。「より過ごしやすく、より快適に」という正義が要求する水準に、多くの人が応えきれなくなる時がいつか来るんじゃないか。そういう不安が。

「より過ごしやすく、より快適に」は「正義」です。しかし、そういう「正義」がいつか僕ら自身を殺すんじゃないか。そんなことを思ったりもします。



まぁこんなことを書いてますが、僕自身は体罰をするのもされるのも嫌です。そういう指導が有効だと思ったことも、実はありません。

ただ、あの時、僕に負けた彼を殴ったあの先生は、今の時代に「先生」が出来るのだろうか、とか思ったりもします。話したことも実はありましたが、普段は実に人当たりのいい、良い人だったんですよね。手が出ること以外は。